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富川ギター教室

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奏法論

ギター奏法論第一章後書き

自然な演奏姿勢への理解がやはり大事!

体全体を意識して

以上で、「ギター奏法論第1章」は終わりになります。
第2章はより各論に近い形になると思います。たぶん、アルペジオの奏法や、 スケールの練習方法などの具体的なメカニックについて書いていく予定です。 かなりの分量になりましたが、私自身全てを語れたかどうか不安なところも有ります。 実際にレッスンであれば5分で済むところを言葉で説明するとなると難しいものです。
最後にひとつだけ言っておきたいことは、「治療」は「予防」にはならないことということ。そして「基礎を学び直すのに遅すぎるということはない」ということです。障害が出てからでは遅いのです。巷には「演奏障害の治療」に関する専門家は多くいますが、「予防」として「正しい体の使い方」をベースにして演奏法を教えている教師は少ないと言わざるを得ません。長く演奏を続けたいのであれば、(まだ現時点で)障害の出ていない人でも自分の演奏姿勢などを再検討してみることが絶対に必要なのです。

既存の奏法理論との矛盾を感じる方へ

第1章で取り上げただけでも、ターレガ、プジョールなどの教本に書いてある既存のメソッドにある左手、 右手、ギターフォームの定義があったはずです。私自身は全く、ターレガが築き上げた「近代的ギター奏法」 を否定する気はありません。逆に、常に参照し、現在でも研究に値するメソッドであると考えています。 その運指法、弾弦法(タッチの仕方)など、ギターの美しさをひきだす創意が含まれていると思います。 そしてそれらを実現するために必要なメカニック(技術)は、ターレガの練習曲、そしてその教えを忠実に 受け継いだプジョールの教本などに見出すことができるのです。

しかし、それを学び、それに忠実にあらんとするだけでは、進歩はありません。 奏法などというものは、つねに進歩し発展していくものなのです。そして100人ギタリストがいれば、 100のテクニック論=奏法論があって然るべきです。

現在の時点でなくても、少し溯って、アンドレス・セゴビア、イエペスなども彼ら独自のテクニック観を 有していました。プロ演奏家は彼らなりの「こう弾きゃ楽じゃん」といった「コツ」をもっていたのです。

さらに時代を経て、デヴィット・ラッセルなどの新時代のギタリストが登場し(今ではもう新時代ではないですね)、 カルレバーロ奏法などの普及もあり、ギタリストは困惑しました。そういう時に、誤解が生まれるのです。 「デヴィット・ラッセルはアポヤンドを使わない」などというものです。そのような噂が「やはりターレガ奏法でない といい音はでない」、逆に「カルレバーロ教本だけ学べば、上手くなれる!」などという両極端の意見を生んだのでは ないでしょうか。
このような論争は、なにも生み出しません。実際に世界のトップギタリストと呼ばれる人全員に「学ぶべき点」はあるのです。 プロ演奏家が使っている「コツ」を抽出し、分析したのが「カルレバーロ奏法」であり、その点にカルレバーロ氏の価値があります。 そして、その弟子たちが、またそれぞれの分析を加えて各々の演奏法を産み出しているというのが大事な点です。 カルレバーロ氏は「過去を否定した」のではありません。「過去を分析した」のだと考えます。ですから、カルレバーロ教本を 全て「教義」のように遵守するのでは、彼の意に反することになるのです。

私自身の見解は、「とりあえず全て学んでみること、そして自分で判断すること」です。例を挙げれば、ある一定水準以上の左手の 拡張の訓練は非常に大切です。1フレット〜4フレットまで、左手の各指を対応させる訓練は最初は非常にきついものです。しかし、 これを完璧にできないで、カルレバーロ理論のみに従って曲を演奏したとしても、左手全体がバタバタしてしまって安定しません。 逆にこの対応のみのフォームで、ある楽曲を演奏しようとしても、左手は硬直し、疲労します。

つまり、近代ギター奏法と呼ばれるものは、やはり基本になるものであると思います。その点において、 プジョール教本は非常に有益な情報を与えてくれます。そして、ホセ・ルイス・ゴンザレス氏の「テクニックノート」も そのような近代ギター奏法の集大成として重要な著作です。基礎的な右手、左手のテクニックの土台となる練習をほとんど全て 含んでいると言えるでしょう。

これらのベースメントが出来てから、カルレバーロ奏法に代表される「現代的な奏法」を応用するのでなければいけません。 私が第1章で書いたことは、あくまでそれを前提に書いてきたものです。全くの初心者に、椅子の座り方を長々と語るほど私は 野暮ではありません。但し、生徒の進歩、段階を見ながらそれらのことを少しずつ説明し、その必要性を解らせるようにしてい ます。全くの初心者の人が中級者ぐらいになり、自分で本当に「椅子に正しく座ることの大切さ」に気づいた時に、該当する部 分を読み、考えをまとめることができるように・・・という考えでこの「奏法論」を書いたのです。

後書きのアトガキ(悪あがき?)

ということで、これで本当に第1章は終わりです。

下書き、構想はできあがっていながら、個人的多忙に任せて、長期間、 この章を完成させるのにかかってしまいました。周囲に「続きは?」と急っつかれつつも、このペース。

私個人としては、ライフワークくらいのつもりでやっているので、別に遅い気はしないのですが・・・。
この「奏法論」は、資料など当たりながら、又自分自身も勉強しながら、まとめていくものであると考えているので、 こんなペースで行きますが、みなさまも気を長くもって、お付き合いください。(2001年3月記す)

2005年度版「ギター奏法論第一章後書き」

アンチ・セゴビアのギター界にて

2001年版後書きで書いたことについて

2001年に書き上げたこの「後書き」も、本当に4年もの歳月「おくら」に入れられていました。
その間に私の考えの基本はまったく変わっていません。最近は30代若手奏者の活躍で、一般のギターファンにも 「合理的な奏法」「現代的な奏法」が広まってきています。
現在2005年のギター界の趨勢は「アンチ・セゴビア」に傾いていると思います。これは私個人として、2001年当時から 危惧していた状況だったのです。「現代的な奏法」対「従来の奏法」というような図式ができあがってしまったようです。 最近のアマチュアの演奏を聞いていると、「上手い」と言われている人ほど、右手、左手の独立が脆弱であると思います。 そして、なによりも「ギターらしい音」がでていない。そう考えざる得ません。
逆に荒々しくても、全てアポヤンドで弾いているような50代男性アマチュアの人の方が、「ギターらしい」音が出ているような 気がするのは気のせいなのでしょうか?

私自身のタッチの変化

最近、周囲から「富川さんの音、変わりましたね!」といわれることが多いのですが、実はここ2年ほど、タッチを少しずつ 変えているのです。私の楽器はアルカンヘルですが、非常に「ギターらしい」ギターだと思います。他の奏者が所有している アルカンヘルを弾かせてもらっても、そう感じます(非常に抽象的ですが)。この「ギターらしさ」はどこに由来 するのだろうか?とここ数年、考え続けてきたといっても過言ではありません。
タッチもいろいろと変化させてきました。毎回のコンサート毎に、いろいろと試したのです。まだ、確定したタッチというのは ありませんが、おそらくアルカンヘルのギターの音には「存在感」があるというのが、現時点での結論です。うまく説明できませんが、 音の芯がある楽器はいくらでもあります。おそらく、世の中の名器と呼ばれるものは全て芯がある楽器のことをいうのでしょう。

しかし、アルカンヘルにはその「芯」の周囲に『何かくっついている』感じがあるのです。それが、非常に微妙なノイズに近いものである ような気がしています。それが、おそらくアルカンヘルの「存在感」なのだと思うのです。音の芯に薄い膜が張っている感じ・・・ とでもいうのでしょうか?

ここ2年ほどはかつて弾いていた「現代曲」というものから、離れていました。この離れていた理由も「ギターらしい音」を出したいという 思いがあったからです。ターレガやリョベートの楽曲や編曲から、ヒントを得ようと集中的に定番と呼ばれるものを演奏してきました。 意識的に避けていたホセ・ルイス・ゴンサレス氏が演奏していた曲も積極的に演奏しました。たとえば、トローバとかグラナドス、ポンセ などです。
ターレガやリョベートが残している楽譜上の運指、ホセ・ルイスの運指法などを再検討すると、いくつかのことを発見しました。 それは「合理的ではない」ということです。おそらくギターという楽器の特性を活かすための運指を彼らは選んでいたのです。 ホセ・ルイスはそういう意味で「本当のギターの音」を知っていた上で、運指付けをしていたのだと今更ながら気づきました。
そして、彼らの運指は「合理的な奏法主義者」たちにとっては、意味が感じられない、または意味を与えることが不可能な運指なのです。 「楽器を選ぶ運指」なのではないかと考えたのです。ほんとうにギターらしい楽器で演奏しない限り、彼らの指使いの ニュアンスは再現できない、ということです。そして、その運指で意味を与える演奏をするには、右手のタッチをかなり研究しなければ なりません。しかし、その運指の意味が理解できたとき、ギターは非常に「ギターらしい」音を出してくれるのだと思います。
幸い、私の楽器アルカンヘルは、彼らの運指の意味を表現できる可能性がある媒体であるようです。それが、この2年ほど、タッチを 変化させ続けねばならなかった原因でもあったのでしょう。

伝統を学んだ上で、合理的な奏法を!

私が2001年版後書きで書いたことと、現在考えていることに変化はありません。ギターを弾くには、最低限の右手、 左手の独立が必要であり、その上で合理的な弾き方を導入していくべきという考えです。すこし、変化があったと すれば、「ギターらしい音」を求めるために、その根拠をターレガやリョベートに求めねばならないと考えたことでしょうか?

とりあえず、このギター奏法論第1章を締めくくらせていただきます。第2章は各論に移ります。第2章も途中まで約4年前に書き あげています。おそらく、そのままアップして、それに解説を加えていく形になると思います。
(2005年3月記す)
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