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奏法論

ギター奏法論第二章第1部

右手のテクニック

音について〜お国柄、楽器、雰囲気etc...

この「奏法論」第2章では、右手について書いていこうと思っている。
時期をおいての連載というこの文章の性質上、既述のことを繰り返すことになるかもしれないが、その辺は御了解頂きたい。

ギター演奏上の右手の役割は、当然の如く「音を出すこと」である。左手は弦を押さえ、右手で音を出す、のである。当然、問題となってくるのが、「音」の定義である。各人に「ギターの音のイメージ」が存在するので、この問題に関して触れるのは難しく、語りにくい。私自身の経験からいっても、これほど「曖昧」なものはないのである。ある時期「いい音」と思って疑わなかった「音」が、ある瞬間から「物足りない音」になってしまったりする。勿論、逆もある。各人の持つ「ギターの音」のイメージは、多くの演奏(実演や録音物)を聴くことによって築かれていく、と言って良いであろう。「ギターの音のイメージ」というものは、変化して当然といっていいのである。各人が「感動した音」を、各々の記憶の中に留めながら、熟成していくものなのである。

そして、もうひとつ言えることは、国によっても大まかな傾向があるのである。例えば、スペインであればカラッとした明るい音、ドイツであればすっきりとした繊細な音、といった具合であろうか。この傾向も抽象的なものであるが、多くの奏者を聴いたあとになんとなく「つかめて」くる傾向なのである。そのようなことがあるから「あの奏者はスペインっぽい音を出すね」とかいう言い回しが出てくるのである。使用している楽器によっても、この「音のイメージ」は左右されると言えるだろう。その楽器の音の特性に耳が馴染んでいけば、その「音のイメージ」は記憶の中に蓄積され、ある種の観念を作り上げる。ある時、演奏会などで違う種類の心に響く音を発見してしまった場合、その観念は補強されることもあれば、その逆に崩れ去ってしまう場合もある。崩壊した場合は、楽器を変えるしかないのである。極論を言えば1万円の楽器を弾いて満足している内は「1万円の音」がその人にとっての「ギターの音のイメージ」であるといってよい。それで弾いている本人が満足しているのであれば、それで一向に構わないのである。ただし、そのような人たちも考えて欲しいのは、何故数百万する楽器を欲しい人がいるか、ということである。それは、明らかに以下の理由であるからである。理由は「その楽器でないと出ない音がある」からである。その音に、人々は金を払うわけである。逆に言えば、「1万円のギターの音」イコール「ギターの美しい音」と思っている人も実際かなり多く、それはそれなりに市場をなしているので、結構ということである。

なによりも大切なのは自身の音のイメージを築いていくことである。常に演奏会に足を運んで生の良い音を聴く、CDを購入し聴く、銘器という呼ばれるギターを楽器店などで試し弾きする、などして自分の中の「ギターの音のイメージ」を築いていくのである。そして、そのイメージの沿うような音を自身の楽器から引き出すことが出来れば良いのである。

このように考えてからギターの弾弦法について語ろうとすると、非常に複雑な問題が生じてくる。ある人にとって「汚い音」が他の人にとっては「美音」とされることがあるし、逆もある。巷には「ギターの美音」に関して多くの物言いがなされている。その数だけ、様々な弾弦法(理論)があるといってよい。この論を書いている私自身にしても、「これが絶対に正しい!」と断言できる「美音の定義」及び「弾弦法」はないのである。私は、自分の思っているギターの美音を出す方法を右手に関しては書いていくしかないのである。私が右手に関して、そしてギターの美音に対して持っているポリシーは次のようなことである。「最小の努力で最大限の効果をあげる」である。「右手を正しく使う」ということである。同時に「最大の努力で最大の効果をあげる」というべき従来の「伝統的な奏法」にも見るべき点はまだまだ沢山あるとも考えている。具体的な例を挙げれば、「アポヤンドによる右手の独立性の訓練」などは「必要不可欠」であると考えている。ただし、ここで留意したいのが、この「アポヤンドによる右手指の独立性の訓練」による「右手の故障」の危険性である。この弾き方のみで実際に楽曲を演奏するのは不可能であるのは明らか、というのが、わたしの立場である。しかし、右手指の独立性を確立していない内に「最小の努力」を行使しようとすれば、おそらくそれは「最小の効果」しか得られないのである。この両極端に思える理論を、両方駆使するのがもっとも現代的な奏法の理論であると、私は考えているのである。


「ギター奏法論第二章第1部」への追記

上記の文章は2001年頃に書かれたものです。硬い文章ですが、現在も上記の考えとほとんど同じ考えを有しています。

また、右手の弾弦法について若干分かりにくい点があるので、その点については、以下の章で詳しく書いていこうと考えています。
以下の章からは昔の原稿を使わず、リアルタイムで書いていこうと考えています。本当は昔の原稿で第二章を書き上げていたのですが、そのまま使うより現在の文体で、そして現在の考え方を反映して書いていくほうが読者のためであると考えたからです。
以降の章もスローペースになるとは思いますが、ノンビリとお待ちください。では。
(2005.9.20記す)
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