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ちょっと前に友人と横浜で飲んだときに、この日記の話題になった。なんだかんだ、この日記、表で書けないことを書いているような風情がありますね。そんな話題になった。で、最近、アクセス解析をチェック。
う!…何故か結構アクセス数があるぞ!…まあ、ほんとにヤバイことは書いていないからいいけどね。知るひとぞ知る…という程度でいいと思っていたのになあ。まあ、読んでいる人がいるから、それなりに「読み手」を意識して書いているってのはある。
そういうことで、この日記、全部読み返した。毎日つけているわけではないので、あっという間に眺めることができた。これは利点かもしれない。
この利点を生かすためには…などと考えると実につまらないので、それなりにだらだらいきます。
ここ最近、また楽器演奏のテクニックについて、いろいろと考えています。もちろん自分の問題でもあるし、生徒さんのためでもあるわけですね。ということで、最近またピアノ関係のテクニック本をちまちまと拾い読みしているわけです。
こういう作業は、「落穂ひろい」的なところがあって、2,3ヶ月でまとまることではないのですね。結構「暇つぶし」的にやっていって、これが数年後とかに、「!」という瞬間があり…という感じでやるものです。こういうことに気づいてきたのは、つい最近なのですが。だから教室のホームページにかいた「奏法論」とかは、若気の至り…なのかも?とちょっと思う。
たまーに考えること。音楽家という職業を続けるということは、なかなか厳しい。はっきりいうと一般の人(それを職業としていない人)には理解できないと思う。そして、理解してもらおうとは思わない。
「〜のため」に続けているのか?…それはさまざまな言い方があっていいのかもしれないけれど、自分にしか分からない動機があって、最終的にはそれが「心の軸」になっていることが多い。ここ数年はこの「心の軸」が「自分は音によって救われている」という感覚なのではないか?と思える。これは、実は中学生くらいからの直感で気づいていたこと。どんなに自分と他者の関係がぐちゃぐちゃしていても、プライベートで何が起ころうとも、「音」がある限り自分の心は最終的には安定した。
これは、「音に救いを求める」タイプの人とは根本的に違う。そこに音があれば、結果として自分は救われていた…という感覚なのだ。このことを普段は一切意識しないのであるが、ある瞬間にふと「ああ、そういうことだったのかあ」と思うことがある。あと何十年かすれば、もっと具体的に言語化することも叶うかもしれない。
音楽をやっているひとで、生理的に受け付けない人っていうのは「音」及び「音楽」を自分のために使おうという人。自分を救うために…癒しのために…他人とのコミュニケーションのために…いろいろ言い方はあるのかもしれないけれど、「〜のために」音楽を使おう!と思っている人には違和感を覚える。音はどんな時も身近にあって、自然に追求すべきものであって、これは芸術全般にも同様のことがいえるのだと考えている。
まとまりませんでした。あくまでも、この裏日記は直感で書いているものですので…。
ギタリストにも日常があります