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やっぱり人って変わるんだなあ、っていうメールが来ました。それはその個人がある個人と特定の思想や思惑などで流される場合に起こりやすいですね。ほんとうにいやだなあって思います。こちらの考えや行動の意味をしっかりと理解する気持ちもまったくもたずに、勝手にものごとを「自分の中でのみ」解決しようとする・・・。人間というのはほんとうにおろかだなあ、と。
と、考えれば考えるほど、人間って悲しいし、おろかな人間は同じ過ちを繰り返し続けるのだなあ、とむなしくなります。
筋違いのことには一切対処しないつもり。なんだか理由がわからない。その人が直接私にいえばいいものを、何故遠まわしに他人に依頼するのか?・・・そしてそれを依頼された側がぬけぬけと引き受けてしまうのか。そういう人達は同じ考えに冒されていると思っていいのかな?・・・だとしたら、私は一切そんな考えの人とは付き合いたくないなあ、と思います。
単純にいえば、不愉快な思いにさせない方法はいくらでもあるはず。最低限の礼節さえ守ってくれれば、私は文句ないんだが。ほんとに年末なのに、精神面でも多忙です。
対処するしかないのかな?と思います。そんなふたり(もしくは3人?)よりも、私には付き合うべき残り50人以上の生徒たちがいるし、尊敬すべき音楽家、仲間がたくさんいるしね。はっきりいうと、そういうおろかな人はこちらとしても今後付き合うつもりはない。その前に念入りにリサーチするけどね。
最近、私も歳をとった。なんだかんだで37だもの。そうだからこそ20代のヤングたちとお話をすると、「ああ、君たちの年代って個性的でいたいのよねえ」と思ってしまって、自分もおっさんだなあ、って思うわけです。
まあ、それが悪いわけではないけれど、結局90パーセントのヤングたちは「個性的であること=良いこと」だと思っているのだけど、それはながーい歴史からみると「善」ではないのだなあ。そのことをはっきりと意識している人がとても少ない。上記の図式で考えてしまうと、「個性がないこと=悪」であって、それは逃げ場がないよねえ。自分を追い詰めてしまう。だからみなファッションにしろ、考え方、ライフスタイルのおいて個性的であろうとしちゃうんだよねえ。それがファッションとかそういう部分で個性的であろうとしたり、考え方の部分で個性的になろうとしても、実はそう考えた時点でまったく「個性的でない」場合が多いので、どんどん新しいものに走ろうとするのがパターンなのですね。それで結局お金と時間をつかっちゃって、なにも自分らしいものがなく終わってしまう。
そういう10代20代の若者、一杯見てきました。
結局、個性的であろうとすると、見えないもの(精神世界や哲学)に走る傾向があるのだよねえ。これが危険なのだなあ。もちろん真剣にやるならばいいけども。簡単に分かったふりができるレベルでやらないほうがいいんだなあ。
好きなアーティストなどの政治的な行動を自分の哲学にしてしまうという「愚行」もよくある傾向。私が尊敬するアーティストが「こういう運動をしているから…」というところに影響を受けてしまう。できれば音楽家は音楽のみを通じて何かを伝えて欲しいとは思う。
小田和正がミスチル桜井とコラボをするときに「俺、あんまり政治的なメッセージは好きじゃないなあ」といっていたと記憶しているけれど、これは音楽家として正しい感覚なのです。
あれこれ書いたが、まとまらない。でも、最近の若い子(20代)の行動パターン、思考パターンについて、ちょっと危険を感じるので書いておいた。無個性でいいんですよ。まったく無個性で。個性を追い求めよう、自分は他人と違うんだ…などと考えているうちは、本当に正しいものなんてなーんも見えてこないと思います。
忘れそうである。アナロガー日記、ひさしぶりだ。一体誰が読んでいるかも分からないけど。たまにつけておくといいのかなあ、と。
色々な音楽を聴きなおしている。昔買ったCDが主なところである。てきとうに取り出して、とにかく頭から最後までかけっぱなし。主に事務作業のときに聴くことにしている。そうすると、とばすこともなく最後まで聞きとおせる。まあコシをすえてじっくりというわけでもなく、ぼやーっと聞きとおしているのだが、それでも「聴こえてくる」ものがある。
厳密にいうと「聴こえて」「来る」ものであるが。そうなのだ、何かがやってくる。「おーい、こんな感じよ」っていうふうに。なので、音楽はために聴き返してやらなきゃいけないわけだ。やはり年齢や自分の経験が増えれば、聴こえてくる量は変わってくる。
デビュー盤から素晴らしい音楽家の集まりであったのだ。これが聞きなおしてみて分かった。やはりブルーズを基本として正統派ロックバンドであった。グルーヴ感も凄い。
なかなかなものです。とにかく実験精神旺盛。一曲ごとのクオリティが高い。すばらしいですね。
いろいろと気づくことがおおいんです。しばらく、この「とりあえず聴く」行為、続けてみようと思っています。
この日記、なんとなく3ヶ月ごとに思い出したかのように書きたくなるようだ。なんだか、面白い。
郷愁…このコトバが南米音楽に多いなあ、と思っていたら、タブッキの小説に実にこのコトバたくさん出てくる。「レクイエム」「供述によるとペレイラは…」と読んだが、人間がどのように過去と折り合いをつけて生きていくか…というテーマに及んだときに、このサウダージというコトバででてくる。サウダージ主義という文学ムーブメントもあったようで、このあたりは地道に研究してみたいとは思う。
ということで、また研究テーマが微妙に増えて、わくわくしている今日この頃。
タブッキの小説には、スペイン市民戦争も登場する。このあたりは実に面白い。なんだかんだいって、スペイン市民戦争は「人間ドラマ」がある。ある意味の極限状態でもあるので、このあたりは昔から興味がある。勉強をすこしずつしていかねばならない分野だなあ、とおもいつつ先送りするのはなんなので、地道でやっていく予定だ。予定だ、というより、それなりに資料は集め続けているので、このあたりと音楽のムーブメントをちょろちょろとつないでいければいいなあ、と考えている。
大学で、人を差別するのはいけない、のだが…。やはり相性が悪い大学がある。今後、もう本気でそういう線引きをしていきたいくらいである。その大学に所属している人全員が悪いわけではないが、私との縁は薄いようだ。もうそう考えるしかない!…というくらい、人ができていない大学なので、もうそう思うしかないだろう。大学=人格教育…と思っていたのであるが…。おそらく、その某大学は入学時点での人格を生涯ひきずるのかもしれない。インテリジェンスのないエリート…性質が悪い。つまり、それはヒューマニティがない、ということだ。
ちなみに我が友人、今まで世話になった先輩、仕事関係者には比較的この大学出身者は少ない。というよりはいないかな?
ちょっと前に友人と横浜で飲んだときに、この日記の話題になった。なんだかんだ、この日記、表で書けないことを書いているような風情がありますね。そんな話題になった。で、最近、アクセス解析をチェック。
う!…何故か結構アクセス数があるぞ!…まあ、ほんとにヤバイことは書いていないからいいけどね。知るひとぞ知る…という程度でいいと思っていたのになあ。まあ、読んでいる人がいるから、それなりに「読み手」を意識して書いているってのはある。
そういうことで、この日記、全部読み返した。毎日つけているわけではないので、あっという間に眺めることができた。これは利点かもしれない。
この利点を生かすためには…などと考えると実につまらないので、それなりにだらだらいきます。
ここ最近、また楽器演奏のテクニックについて、いろいろと考えています。もちろん自分の問題でもあるし、生徒さんのためでもあるわけですね。ということで、最近またピアノ関係のテクニック本をちまちまと拾い読みしているわけです。
こういう作業は、「落穂ひろい」的なところがあって、2,3ヶ月でまとまることではないのですね。結構「暇つぶし」的にやっていって、これが数年後とかに、「!」という瞬間があり…という感じでやるものです。こういうことに気づいてきたのは、つい最近なのですが。だから教室のホームページにかいた「奏法論」とかは、若気の至り…なのかも?とちょっと思う。
たまーに考えること。音楽家という職業を続けるということは、なかなか厳しい。はっきりいうと一般の人(それを職業としていない人)には理解できないと思う。そして、理解してもらおうとは思わない。
「〜のため」に続けているのか?…それはさまざまな言い方があっていいのかもしれないけれど、自分にしか分からない動機があって、最終的にはそれが「心の軸」になっていることが多い。ここ数年はこの「心の軸」が「自分は音によって救われている」という感覚なのではないか?と思える。これは、実は中学生くらいからの直感で気づいていたこと。どんなに自分と他者の関係がぐちゃぐちゃしていても、プライベートで何が起ころうとも、「音」がある限り自分の心は最終的には安定した。
これは、「音に救いを求める」タイプの人とは根本的に違う。そこに音があれば、結果として自分は救われていた…という感覚なのだ。このことを普段は一切意識しないのであるが、ある瞬間にふと「ああ、そういうことだったのかあ」と思うことがある。あと何十年かすれば、もっと具体的に言語化することも叶うかもしれない。
音楽をやっているひとで、生理的に受け付けない人っていうのは「音」及び「音楽」を自分のために使おうという人。自分を救うために…癒しのために…他人とのコミュニケーションのために…いろいろ言い方はあるのかもしれないけれど、「〜のために」音楽を使おう!と思っている人には違和感を覚える。音はどんな時も身近にあって、自然に追求すべきものであって、これは芸術全般にも同様のことがいえるのだと考えている。
まとまりませんでした。あくまでも、この裏日記は直感で書いているものですので…。
ギタリストにも日常があります